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"徳島市消防のあゆみ"の目的
火災・地震・台風…、人類の歴史は災害の歴史と言っても過言ではないでしょう。我々人類は、常に様々な災害に直面する可能性を孕みながら日々を過ごしています。災害を経験する度に、防災の重要性を改めて知り、新たな防災・より良い防災を考えてきました。
それは徳島市でも同様です。吉野川を始めとする徳島市内を流れる多数の河川は、水運の利便や肥沃な土壌を齎し、徳島市の発展を支えてきました。しかし、一度大雨が降れば、それらは住民の生命財産を奪う脅威と化してしまい、住民はこの水害に様々な対策を思案してきました。
徳島市を襲う災害は水害だけに留まらず、地震・津波・台風等の自然災害は元より、火災・交通事故・水難事故・労働災害等も残念ながら発生します。これらの事案に対し、我々徳島市消防は最善の消防活動を実施し、その後の消防行政の糧としてきました。
ここでは、そんな徳島市消防のあゆみを辿りながら、その記録を公開しています。皆様の学習・調査等に役立てば幸いです。
昭和22年(1947年)以前
江戸時代
現在の徳島県に相当する阿波藩の城下町として、現在の徳島市中心部は栄えていました。
当初、徳島城の警備を主な任務としていた城内見回組・城山付近の火事場へ出動する本城役人衆・町奉行を頭とする同心等によって警備体制が立てられていました。城下町での火災発生時には、以上の藩の役人の指揮に従い、年寄・五人組・各町民等による消防活動が行われました。
天明年間(1781年~1789年)に、度々発生した大火を受けて徳島城に火の見番を創設。江戸幕府の制度に習い、江戸から鳶職(徳島県では屋形師と称する)数人を連れ帰り、徳島市内の屋形師50人を徴募・訓練し、消防組(後に本鳶と改称)を編成し、城の消防を受け持ちました。
その後、それぞれ屋形師が徴募され、以下の2つの消防が組織されました。
・渭東方面…屋形師70人を徴募し、西の丸に「駈付」を設置。
(現在の徳島市徳島町城内6-6付近)
・西富田方面…屋形師70人を徴募し、東御殿に「東御殿駈付」を設置。
(現在の徳島市万代町1丁目1付近)
これら消防組の頭には帯刀が許され、平常時において鳶職達は紛議の仲裁を行う等、警察機能の一部を担っていました。
元禄年間(1688年~1704年)から宝暦年間(1751年~1763年)頃には「龍吐水(手押しポンプ)」が発明され、阿波藩はこの龍吐水を、本丸(徳島城)・西の丸・東御殿に配備しました。
ここまで述べた消防組は、江戸における武士火消に相当しました。町火消に相当する組織も、屋形師を徴募して次の3つが組織されました。
・佐古西部…屋形師40人を徴募し、「蛇の目組」を設置。
・佐古東部…屋形師40人を徴募し、「は組」を設置。
・助任方面…屋形師30人を徴募し、「て組」を設置。
その後、享和2年(1802年)に徳島城下の町火消は5組織に編成され、各自地域の消防活動に従事しました。
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明治時代
江戸時代から引き継がれた消防制度は明治維新以後の維持され、明治6年(1873年)頃には次の消防組が組織されました。
・福島方面…27人を以って、「市松組」を設置。
・二軒屋方面…30人を以って、「丸金組」を設置。
・寺町方面…27人を以って、「い組」を設置。
明治8年(1875年)には、徳島市内に合計で10組の消防組が編成され、この頃から出初式や各種消防演技(梯子乗りやポンプの放水競技)が実施されていました。
明治13年(1880年)、出火消防規則制定。市街地を3方限(区域)に分け、より敏速な消防活動を狙った物でした。
・第一方限…東端:福島橋・西端:滝見橋・南端:富田橋・北端:助任橋
・第二方限…東端:安宅天文台・西端:佐古・南端:横土手・北端:助任江西寺
・第三方限…徳島県庁(現在の徳島市幸町2丁目5付近)を隔てて概ね1丁以西
明治22年(1889年)10月1日、明治の大合併で37町村が合併し「徳島市」が誕生しました。当時、1万4191世帯・6万1084人の市民に対して、消防組員の数は併せて約253人でした。
・各方限…組頭1人×3方限=3人
・各組…(小頭2人×10組=20人)+(防火丁23人×10組=230人)=250人
番組 | 管轄地域 | 名称 | | 番組 | 管轄地域 | 名称 |
一番組 | 内町 | 本鳶 | | 六番組 | 富田 | 東御殿駈付 |
二番組 | 寺町 | い組 | | 七番組 | 佐古 | 蛇の目組 |
三番組 | 渭東 | 本鳶 | | 八番組 | 佐古 | は組 |
四番組 | 助任 | て組 | | 九番組 | 福島 | 市松組 |
五番組 | 新町 | 本鳶 | | 十番組 | 二軒屋 | 丸金組 |
明治中期になると、地方消防の不統一性・組織運営・財政が問題になってきました。この為、明治27年(1894年)に勅令第15号が発せられ、全国で統一された消防制度が確立されました。当時の消防は、府県知事の警察権に属して活動を行う事となりました。
これを受けて、徳島市では番組制を部制に変更。公設消防組として、当時の東京市にあった市原製作所から、ドイツ型の腕用ポンプ10台を購入・配置しました。この時、消防組員の定数を271人に変更しました。
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大正時代
大正3年(1914年)、36馬力ガソリンポンプを1台購入し、第1部に配置。徳島市消防の機械化が幕を明けました。
大正13年(1924年)、自動車ポンプを1台購入し、運転手として1人を常備員として、それぞれ第1部に配置・勤務させました。この年の4月、各種設備の導入に伴い、10部制から7部制に改組しました。
大正15年(1926年)4月、津田村・斎田村・沖洲村が徳島市に編入され、7部制から12部制に改組しました。同年7月、徳島市消防組服務規程を定めました。
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昭和時代
昭和3年(1928年)4月、常備消防班を第1部に付設させ、幹部2人・消防手4人を隔日交代で勤務させ、詰所を徳島警察署構内に設置しました。
昭和12年(1937年)、防空法の公布施行により、新たに防護団を結成し、徳島士長を防護団長とする民間防空体制が12分団によって敷かれました。
昭和13年(1938年)、八万村・加茂町・加茂名町が徳島市に編入され、徳島市の消防組は36部982人の組織となりました。
昭和14年(1939年)4月1日、勅命により警防団令が施行。消防組と防護団は統合改組され、警防団が誕生しました。徳島市では、12分団・2,261人で編成されていました。
昭和18年(1943年)、常備消防の定員を8人増員し、合計30人に。同時に補助員として警防団員30人が配属されました。
昭和19年(1944年)、大日本警防協会長より、全国優良警防団として表彰状・表彰旗を授与されました。
昭和20年(1945年)7月3日から4日にかけてアメリカ軍による徳島大空襲に見舞われ、徳島市の約62%に当たる462万m2が焦土と化し、死者1001人・重軽傷者約2000人・被災者数7万295人の被害を受けました。その後終戦を迎え、直後の9月には常備消防を東西に分置しました。
昭和22年(1947年)9月、消防団令(勅命)の公布施行に伴い、徳島市消防団条例が制定され、徳島市警防団は徳島市消防団として誕生しました。本部と13分団からなる、定員1000人の組織でした。更に12月23日、消防組織法(昭和22年法律第226号)が公布され、自治体消防の幕開けとなりました。
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昭和23年(1948年)以降・昭和時代
昭和23年(1948年)
03月07日…消防組織法施行、自治体消防が発足。
04月22日…徳島市消防本部等設置条例・徳島市消防団条例を制定。
04月23日…眉山で山火事。
佐古山町椎宮の椎宮八幡神社付近の焚き木から出火した山火事で、約16時間に渡って眉山を燃やし、延べ50haを焼失しました。また、負傷者が2名出ました。
06月01日…徳島市消防本部を設置。
徳島市消防団条例によって昭和22年に設置された消防委員会を廃止し、消防本部を設置。同時に、消防団常備部を消防署に改めました。また、徳島市消防団は本部及び13分団・定員948人によって組織され、手曳ガソリンポンプ25台・腕用ポンプ10台を配置しました。
・徳島市消防本部 / 徳島市消防署 … 徳島町城の内2番地
・西出張所 … 蔵本町2丁目6番地
・徳島市消防団に設置された分団 …
新町分団・昭和分団・加茂名分団・佐古分団・渭東分団・加茂分団・東富田分団
沖洲分団・八万分団・西富田分団・渭北分団・内町分団・津田分団
12月28日…徳島市消防本部規則
徳島市消防署規程・徳島市消防団規則を制定。
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昭和24年(1949年)
01月05日…沖洲町大堤・徳島工業工員寮火災。
2棟1,604m2を焼損し、約1,000万円の損害を出しました。
02月23日…田宮町1124・小林燐寸株式会社田宮工場火災。
4棟990m2を焼損し、約365万円の損害を出しました。
02月27日…自治体消防発足後初の災害救助演習を実施。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の軍政部シーソー少佐らの参加の下、徳島市内各地で実施されました。
06月18日~06月21日…デラ台風来襲。
デラ台風(昭和24年台風第2号)によって、徳島県内で死者4名・行方不明6名・全壊家屋35戸・流出家屋4戸・床上浸水家屋710戸の被害が出ました。
06月23日…消防士採用規則を制定。
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昭和25年(1950年)
03月13日…城の内2番地・憲法記念館(徳島県立図書館)火災。
16時20分頃に、壁体の割れ目から白煙が上昇しているとの駆け込み通報で出動。壁間が焼けている事、その壁間に放水しようにもモルタルに遮られて消火活動が難航した事等により、最終的には屋根も落ちて全焼に至りました。
焼損面積1,574m2・損害額約700万円・負傷者2名を出した他、歴代阿波藩主によって収集された阿波文庫(阿波国文庫)を中心に多数の蔵書が失われました。
04月03日…南福島3丁目33・中村木工所火災。
6棟543m2を焼損し、約728万円の損害を出しました。
04月22日…沖洲町字沖ノ浦・徳島工業株式会社火災。
3棟726m2を焼損し、約650万円の損害を出しました。
06月16日…徳島市中心街が徳島県告示によって防火地域に指定。
防火地域…都市計画法第9条第20項によって、「市街地における火災の危険を防除するため定める地域」として定められる地域の事を示します。指定された地域内の建築物は準耐火建築物・耐火建築物にする必要がある他、建築基準法等によっても各種規制が定められます。
08月01日…日本赤十字社徳島支部に
徳島県初の救急車「レッドクロス号」が登場。
08月23日…徳島市消防職員の服装に関する規則を制定。
09月01日~09月03日…ジェーン台風来襲。
ジェーン台風(昭和25年台風第28号)は、9月3日10時頃に徳島県海部郡日和佐町(当時)へ上陸し、徳島県内で死者29名・負傷者269名・全壊714戸・半壊2,081戸・床上浸水6,241戸の被害が出ました。
09月12日~09月15日…キジア台風来襲。
キジア台風(昭和25年台風第29号)によって、徳島県内で死者2名・負傷者4名・全壊12戸・半壊76戸・床上浸水523戸の被害が出ました。
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昭和26年(1951年)
03月27日…富田橋4丁目7・徳島タドン企業組合火災。
3棟507m2を焼損し、約122万円の損害を出しました。
04月01日…勝占村・多家良村が徳島市に合併。
勝占村消防団・多家良村消防団を徳島市消防団に編入し、15分団・903人体制へ。
07月07日…出来島本町4丁目・住宅火災。
3棟726m2を焼損し、約650万円の損害を出しました。
08月28日…徳島市水防協議会条例制定。
09月14日…籠屋町1丁目23・歌舞伎座火災。
16棟1,081m2を焼損、約1,942万円の損害を出し、死者3名・負傷者6名の人的被害も出しました。当時徳島随一の繁華街に建てられた、徳島随一の木造建築であった歌舞伎座の火災は、付近建造物を巻き込ながら1時間半以上に渡って燃え続けました。
10月13日~10月15日…ルース台風来襲。
ルース台風(昭和26年台風第15号)によって、徳島県内で死者10名・負傷者27名・全壊169戸・半壊545戸・床上浸水421戸の被害が出ました。
12月23日…中央通3丁目19・富田小学校火災。
6棟2,980m2を焼損し、約1,818万円の損害を出しました。
12月25日…徳島市火災予防条例・徳島市危険物取締条例を制定。
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昭和27年(1952年)
04月21日…南蔵本町2丁目三谷・庄野煙火工場火災。
2棟50m2を焼損、約120万円の損害を出し、死者3名・負傷者8名の人的被害も出しました。花火の穴開け作業中に発火し、爆発へと至った火災でした。
05月24日…徳島市公務証票規程徳島市防火責任者規則を制定。
08月01日…国家消防庁が国家消防本部に改称。
09月19日…水槽付き消防ポンプ自動車を1台購入、第1号車として配備。
12月22日…八多町南園根14・仁木製材工場火災。
6棟658m2を焼損、約497万円の損害を出しました。
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昭和28年(1953年)
2月(日付不詳)…徳島市消防団が全国優良消防団に認められる。
日本消防協会から表彰状と表彰旗を授与されました。
02月04日…南内町1丁目・住宅火災。
4棟23m2を焼損し、約44万円の損害を出した他、死者2名の人的被害が出ました。
03月01日…全国一斉春の火災予防運動が制定される。
07月27日…消防施設強化促進法が制定される。
08月01日…新町川で渡河放水訓練を実施。
09月23日~09月25日…台風13号来襲。
台風第13号によって、徳島県内で死者1名・負傷者6名・全壊22戸・半壊60戸・床上浸水1,924戸の被害が出ました。
10月10日…徳島市消防賞じゅつ金条例・消防に協力援助した者の災害給付に関する条例・徳島市消防訓練礼式に関する規則を制定。
10月21日…親子式消防ポンプ自動車を購入。
親子式消防ポンプ自動車とは、通常の大型消防ポンプ自動車に小型動力ポンプ(可搬ポンプ)を積載した消防自動車です。市町村合併によって市域が増えた徳島市の新市域では田圃の畔道が多く、火災現場まで消防自動車で駆け付けても途中までしか近づけない事から開発された物です。配置当初には大変活躍し、徳島市の消防活動に大きく寄与しました。
11月26日…全国一斉秋の火災予防運動が制定される。
12月26日…吉野本町5丁目26・清水建材店火災。
9棟522m2を焼損し、約242万円の損害が出ました。また、負傷者3名の人的被害が出ました。
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昭和29年(1954年)
08月14日…八万町字大坪148・八木製ロウ工場火災。
8棟695m2を焼損、約898万円の損害が出ました。
09月12日~09月14日…台風12号来襲。
台風第12号によって、徳島県内で死者10名・負傷者22名・全壊254戸・半壊641戸・床上浸水2,917戸の被害が出ました。
09月24日…消防関係職員服制基準を告示。
09月25日~09月26日…洞爺丸台風来襲。
洞爺丸台風(昭和29年台風第15号)によって、徳島県内で死者1名・負傷者21名・全壊137戸・半壊385戸・床上浸水121戸の被害が出ました。
12月31日…北佐古6丁目13-4・旭精穀工業株式会社火災。
12棟1,376m2を焼損し、約3,651万円の損害が出ました。また、負傷者6名の人的被害が出ました。
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昭和30年(1955年)
01月01日…新居町(現在の不動町)・入田村が徳島市に合併。
新居町消防団・入田村消防団を徳島市消防団に編入し、17分団体制へ。尚、新居町は不動町に名前を改め、編入時に不動分団となりました。
01月06日…万代町4丁目2・徳島造船産業株式会社火災。
10棟1,109m2を焼損し、約898万円の損害が出ました。また、負傷者3名の人的被害が出ました。
01月26日…文化財防火デーが設定される。
02月11日…上八万村が徳島市に合併。
上八万村消防団を徳島市消防団に編入し、18分団体制へ。
02月28日…全国一斉車両防火運動が設定される。
03月31日…川内村が徳島市に合併。
川内村消防団を徳島市消防団に編入し、19分団・1,473人体制へ。
04月01日…徳島市消防署規程を制定。
05月10日…中前川町5丁目5・丸善木材企業組合火災。
6棟781m2を焼損し、約518万円の損害を出しました。また、負傷者1名の人的被害が出ました。
06月01日…津田分遣所を設置。
それまでは、原則として消防団の消防自動車は地元からの寄付によって配備されていました。しかし、当時の津田分団長からの強い要望を受けて、消防署から現役の消防ポンプ自動車と常駐機関員(ポンプ車の運転・操作員)を派遣する事となりました。この常駐機関員を置く分遣所制度は、その後徳島市消防団の有力分団に広まっていきました。
10月01日…八万分遣所を設置。
10月19日…日本損害保険協会から水槽付消防ポンプ自動車1台を寄贈される。
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昭和31年(1956年)
01月15日…南二軒屋町2丁目1183・新日本工業株式会社火災。
11棟1,275m2を焼損し、約427万円の損害を出しました。また、負傷者2名の人的被害が出ました。
02月04日…南福島町3丁目・住宅火災。
4棟116m2を焼損し、約47万円の損害が出ました。また、死者3名・負傷者1名の人的被害が出ました。
07月30日…南佐古13丁目・上田花火工場火災。
2棟27m2を焼損し、約1万円の損害を出しました。また、負傷者1名の人的被害が出ました。
11月26日…藍場町2丁目8・住宅火災(通称:藍場町の大火)。
50棟1,595m2を焼損し、約1,327万円の損害を出しました。また、負傷者14名の人的被害が出ました。
後に「藍場町の大火」と呼ばれるこの火災は、当時の秋季全国火災予防運動の初日に発生しました。折しもこの日は防火パレードを実施しており、携帯電話はおろか無線も装備されていないこの頃、留守を任されていた消防隊2隊で任務に当たっていました。
そんな日の14時18分、望楼(所謂「火の見櫓」の事で、電話網が広がっていなかった当時、この望楼から火災が発生していないかどうか管轄を監視する仕事がありました)から藍場町で黒煙が上がっているのを確認し、出動に至りました。
しかし、出動途上で踏切に捕まる、10m/sの西風、火災現場はバラック密集地、出火場所は街区の西端部、街区の南側が川に接している為に南側からの消火作業が手薄となってしまった等の悪条件が重なった事で、消防活動が後手後手に回ってしまいました。その結果、消防ホースが焼きちぎれ、消防隊員が火中に取り残されてしまう等、その後に教訓を残す火災となりました。火災は隣接町村の応援も得て、2時間程で鎮火しました。
この火災から、当時徳島町にあった消防庁舎の幸町移転や消防艇導入が検討されるに至りました。
11月30日…南佐古13丁目・上田花火工場火災。
6棟320m2を焼損し、約266万円の損害を出しました。また、負傷者1名の人的被害が出ました。
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